norikura’s diary

ocn さんの blog Cafe から越して来ました。どうぞよろしく!

第6主日カトリック飯田教会ミサより-a liturgy

B年.年間第6主日
表紙
「よろしい。清くなれ」
入祭唱
「神よ、あなたはわたしの岩、わたしのとりで。あなたのいつくしみによってわたしを導き出し、養ってください。」
第一朗読(創世記)
「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は生涯苦しむ。」
答唱詩編(詩篇、32・5、10+11)
「主は豊かな贖いに満ち、慈しみ深い。」
第二朗読(使徒パウロのコリントの教会への手紙)
「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
アレルヤ唱(ルカ、7・16)
「偉大な預言者がわたしたちのうちに現れ、神は民を訪れてくださった。」
福音説教(マルコによる、1・40-45)
「重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」
「 今日のマルコ。1人の重い皮膚病患った人。ハンセン氏病患者。イエスのところに行って、「御心でしたら清くお出来になります。」そして、イエスは手を差し伸べて、「清くなれ。」と言った。すると清くなった。イエスは誰にも言わないように言った。しかし、その人は、あっちこっちに行って、言い広めた。
 この章をいろいろに解釈することが出来る。その中で、癒された人について考えたいと思います。嬉しかった。ハンセン氏病の人。罹ると人々の集団から締め出される。隔離される。治らない病気。希望・夢がない。完全な孤独。人々から見捨てられて悲惨な状況になる。そこから解放された。嬉しさ。自分が癒された。だけでなく、イエスに出会った嬉しさ。ある人との出会いから来る喜び。それがある。いろいろなところで、イエスに出会った喜びを話した。
 われわれの信仰も出会い。信じてミサに来る、祈る。それで天国に行ける。それじゃあ、信仰が間違っていないか?信仰の真髄が違っていないか?ある人に出会う。大きく自分が変わって行く。出会った喜び。それが信仰の真髄の筈。頭だけだと、心に降りて来ないと、信仰の真髄に触れることが出来ない。
 わたくしは、高校を卒業して、カトリックに出会った。聖書を読んで納得した。頭で読んで理解しただけで、洗礼を受けた。でも、頭で読んで理解しただけでは駄目だった。神学校・神父として歩んで来る中で、頭だけの信仰だった。心に降りて来なかった。自分と神。自分とイエス。出会いの経験がなかった。頭だけで、理解しようとしていた。その中、神との出会いの経験が皆無だった。神父になっても同じだった。それが結局、自分を農業に駆り立てたのだと思う。人々にイエスとの出会う喜びを感じているか?他とは違う喜びを感じているか?その喜びが生活を生き生きとしたものにさせ、人生を豊かに生きて行く力・喜びとする。頭だけで理解出来ても、心に降りて来なければ、出会いが生きる喜びとならない。
 マザー・テレサ。聴罪司祭・霊的指導者に語った手紙がある。その中で驚くべきことを語っている。シスターになって50年間。心の中はカラカラだった。心の中で神を感じなかった。あのマザーが神を感じなかった。神は敢えてこうしたのだと思う。それは、周りの人々の中にイエスを見出したから。スラムの人々・病気の人々・身寄りの無い年寄・道端の人々・貧しい人々の中にイエスを見つけたから。それは、喜びに溢れた偉大な一生だった。周りの人々の中で、イエスに出会う。イエスと出会った喜びで、一生を生き生きと生きる。
 わたしにとって、昨年のクリスマス。日中でのミサ。クリスマス25日のミサ、福音の御言葉。「すべてのものが神によってなった。創られたもので、御言葉によらないで創られたものはなかった。」あのイエスが万物を創られたんだ。何年も読んでいる箇所だった。でも、聞いた時感じた。不思議だった。毎日接している1本の草や田圃。そこにも、イエスの生命・愛がある。それに気付いた。イエスとの出会い。毎日、それまで何も感じなかった。でも、その時感じた。すべて、イエスが創ったもの。何十年間やって来たことの後。それは、子育ての中で、子供に。仕事の中で。或いは、地域の中で。そういったことを通してイエスと出会うことがある。それは、1人1人の恵み。1人1人違う。その人に合った恵み。その時、イエスと出会う。それを受け止める感受性。敏感さ。それが大切。イエスを何重にも取り囲む群衆ではなく。1人の女性がイエスに出会う。イエスに触れる。何十年も出血に苦しんでいた女性が、それによって治った。イエスを取り囲めば良いというものではない。出会いがある。恵み、出会いがある。
 それには、毎日御言葉を聞いて、イエスが語りかけておられることを聞くことが大切。イエスが人々を通して、語られることを聞くが大切。イエスが語っておられる。出会いを通して。イエスが来られた。イエスに出会った。その喜び。嬉しい。辛いことがあっても、嬉しい。それがミサ。それが信仰の真髄。イエスに出会う。それには、心の敏感さが必要である。「あっ、イエスだ。」毎日聖書を読んで、神の子であるイエスが語ってくださる御言葉を聞く。それが大切である。サミュエル。「主よ、わたしはここに居ます。どうぞ語ってください。」神を受け入れるという感覚。神がわたしに語りかけてくれ声を心に留める。その敏感さが大切。そうすると、ある時、「あっ、イエスだ。」そう感じることがある。敏感さ。
 今日の福音。大きな出来事。嬉しくなる。何時も、イエスに出会っている。人々を勇気づけ、元気づけている。生まれた喜び、希望を感謝して生きる。
 イエスとの出会いを求めて祈りたい。」
(2/15カトリック飯田教会ミサ・伊藤神父様の説教から。わたくし乗倉のメモから起こしました。文責はわたくしにあります。)
共同祈願
「神の慈しみと愛は永遠。」
拝領唱
「神は世を愛し、ひとり子を与えられた。子を信じる人が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである。」
notes
1 共同祈願を、「Lectio Divina」の言葉からとりました。
2 2/25(水)灰の水曜日(Ash Wednesday)19:00~ミサ。棕櫚の葉を来週の日曜までに。
英語典礼の序より
「今日のメッセージは次のことです。イエスは、触れることすら禁じられていた人々にさえ、触れられました。しかも、癒しの力をもって。わたしたち一人一人は、人生に措いてどんなにしばしばイエスの生命がわたしたちに触れているか、それを思い巡らさなければなりません。洗礼の時、イエスはわたしたちを孤絶から救ってくださいました。そして、キリスト者のコミュニティーの中に生きる恵みをくださいました。その時、イエスは、彼の愛をもってわたしたちに触れてくださったのです。イエスは御聖体によってわたしたちの中にいらっしゃいます。わたしたちに話しかけられ、御自分の体を与えてくださいます。そして、その時は何時も、イエスはわたしたちに触れているのです。イエスは、しばしば、癒しである赦しをもってわたしたちに触れられます。しかも、辛い時の慰めとともに、わたしたちが臆する時齎す力とともに、途方にくれている時の知恵をもって。しかし、わたしたちは、イエスが触れる時、受け入れましたか?そして、わたしたちはお互いに癒しを齎す労わりをもって触れあっているでしょうか?」
Lectio Divinaより
神よ、わたしの信仰を増してください。
神よ、困っている人々にどう応えるべきか示してください。